「死にたがり」について

 私は、死にたがりである。死にたくなりやすい体質なのである。
 とはいえ、私の手首に傷など全くついていないし、腕にも切ったあとはない。私からすれば、手首や腕を切りたがる人というのは死にたがりではないのである。彼らは逃げたがりなのであって、情けをかけずに評すれば、死にたがりよりも低次な存在なのである。


 では、私のいう「死にたがり」とは、いったい何であるのか。それは非常に単純である。死にたがりとは、良心の声を常に聞き入れていることによって、絶えず理想と現実の衝突に直面し、現実の自分の姿を恥じて、消えてしまいたいと考える者のことである。
 それならば、先にあげた例――手首や腕を切りたがる、自傷癖のある人々――と変わらないではないか。そんな反論が出てくるかもしれない。それに対して私は、先の条件に一文節加えることによって「死にたがり」が「自傷癖」と何が違うのかを説明することができる。その「一文節」とは、「自らの罪を重く見ているために、死ぬことすらできない者」というものである。


 前回、愛について論じた。愛とは、自身の生活の中で、どういうわけか尊敬せざるを得ないような大いなる存在――つまり魂――に対する同一性の欲望であり、自分の理想を追い求め、自分の現実を恨む激情のことである。
 愛によって形成された理想「たち」は――魂とは、複数存在していなければならない。その複数性こそが、その人が肉体と共にもたらされた感度であるのだから――生活の至るところで自分の行動に対して推奨し、あるいは非難する。そして私は、これを「良心」と呼んでいる。良心とは、生まれ持って多くの人々に共通してもたらされた無形なものではなく、具体的な生活の中で紡がれた愛の結晶――集合体――なのである。
 そしてこの良心は、私たちを責め立てることを仕事のひとつにしている。このように振る舞うのだと命じ、それに従わなかった場合、その持ち主に対して「理想から距離を取った」ことを叱責するのである。あるいは、逆に「してはならない」と命じたことに背き、悪を為した場合にも、同じような対応をする。つまり、良心とは「命ずる者」であり「責める者」なのである。
 とはいえ、その「責め」の場面は、その人の内部で起こっていることであるため、他者からすれば何も見えないし、ひとりで苦しんでいるように見える。しかし、これこそが真の「自責」なのだ。形のない「理想」からかけ離れたことに対してネガティブな評価を自分に向けることと、形のある「良心」から乖離した自身に怒りを向けることでは、後者の方が圧倒的に高次な、人間らしい感覚なのである。というのも、前者の場合は「他者への尊敬」というものを持たず、空洞の理想との分断に苦しんでいるのだから、ひとりだけのヒトとしてならまだしも、多くの他者と共存している「人間」――つまり、あらゆる「人間(良心)」の「間」で葛藤する存在――として見なすことができないからである。単なる「~ができない自分」という認識は、まさに無価値なのだ。そんな、真の理想なき悩みなど、悩む価値もないのである。「~のように~できない」という、具体的な像を持つことによって、私たちの悩みというものは光を放つ。


 さて、この愛であるが、これは私自身、あるいは誰か自身に固有の情熱である。愛されキャラという言葉はあっても、私の主張する意味で誰にでも「愛される」人というのはありえない。かわいらしさとは独立して、そうなりたいという願望、そして表裏をなす「なぜ自分はこの人じゃないのか」という自己嫌悪を引き起こすような人がそうそういるはずがない。
 愛とは理想に向けられるものであり、愛の結晶が良心である。良心は自分を責めたてるものであるが、良心は決して自殺を推奨することはない。良心は、このようにあれという手招きをすることはあっても、それがどれだけ非難の声を上げながらであっても、彼らの元へ向かうことを促すのであって、決してその道をあきらめること――つまり自殺――を促進するようには働かない。
 そうであるならば、自殺とは、そもそも人生の具体的な理想像を掴めなかったものが、そもそもどこにもつながっていない、果てもなければ意味もない道から脱落することか、理想を形成して、その良心から手招きを受けながらもそれを拒否して道から落ちることということになる。そしてこの場合、より罪深いのは後者である。
たしかに、先に述べたように人生の具体的な理想像を形成できないということは、人間として不十分であるわけだが、それは、いうなれば「あわれみ」の対象である。
しかし後者の場合――良心の声を聴きながらそれを無視した者は、二重の意味で罪を背負うことになる。ひとつ目は、単純に「尊敬する者からの声」を無視したことにあり、ふたつ目は、その人に固有であった愛の素質――具体的な誰かを良心へと昇華させる能力――を放棄したこと、つまりは「その人への愛をひとつ消滅させたこと」である。
 当然、神より与えられた命に対しての冒涜という観点から自殺を非難することもできるし、自殺を否定する宗教はこれを理由としているだろう。しかし、私にいわせれば、人は「その人自身の命」よりも「誰かに愛を向けることができる能力」に価値があるのである。当然、命それ自体の価値は重たいものであるが、それよりも愛――正確には、愛の可能性――を重視するのである。


 私が死にたがりであるということに話を戻すことにする。私が死にたがりであるのはなぜか。それは、私が多くの愛、多くの良心を私の内部に形成している――つまり理想が多重になっているため、振る舞いが良心から脱線する頻度が非常に高いからである。振る舞いからの脱線は、自己嫌悪を引き起こす。なぜ私はあのように、彼のように、彼女のように振る舞えなかったのか。自らを恥じて、自らの命に価値を見出せず、これを放棄したいと感じる機会も非常に多い。
 では、なぜ私は死ねないのだろうか。それは、私の振る舞いが理想からの逸脱を重ねすぎたため――誰かを傷つけたり、あるいは救えなかったりしたために、私自身が積み重ねた「罪」というものが、膨大に膨れあがってしまい、もはやこの命ひとつ犠牲にしたところで償い切れないものになっているという意識があるからである。
 私が死にたがりであるのは、私が良心の指示に従うことのできない未熟な存在であるからである。私が死ねないのは、私が罪を犯しすぎたためである。つまり私の死にたがりとは、単に「自らの命や価値を軽視している」だけではなく、これまでの人生の失敗と比較することで、「捨てたところで何も引き起こせないほど無価値である」という強化がなされた結果の罪悪感なのである。
しかし、そのようなネガティブな感覚だけではない。私はたしかに、死にたくなるほど理想に届かない。だが同時に、理想に届くまでは死ねないという感覚も胸に秘めているのである。これは、単なる自己嫌悪に留まらない、悔しさという感覚である。
 死にたくなって自身を傷つける人がここにいたとする。もちろん、それが本当に死ぬためのものであるかにも当然目を向ける必要がある。死ぬ気がないのに自身を傷つける人というのは、誰かへのあてつけを形にしたい――見せつけたいだけか、その傷を誰かに示すことで同情を得たいだけか、感覚の狂ったマゾヒストである。
 私のいう「死にたがり」とは、死にたくなるが、愛のために、罪悪感のために、悔しさのために死ぬことを選択しない――選択できない人のことである。人生を放棄するために自殺を遂行した者や、苦しみのために命を捨てようとするものは、死にたがりというよりは「逃げたがり」なのである。今自分を苦しめている「苦しみ」から逃げたいという感覚を持った人なのである。しかし、私が強調・指摘したいのはむしろ、「これまでに重ねてきた罪から逃げている」ということ――命ひとつで簡単に償えると、自らの命を過大視しているという点である。


 当たり前のことだが、私は堪えられないほどの貧困や不幸から自殺をしたこともないし、それを願ったこともない。堪えられないほどの貧困や不幸から自殺をした人に対して無礼であるという批判を、私自身が受けることもあるだろう。死人に鞭を打つことはしない。私は、私の言葉でいうところの「逃げ」によって「自殺してしまった」人を責めるようなことはしない。これから死のうとしている人が目の前にる時、私は自身の論を突きつけたい。
 私は宗教家ではない。私は、一定のコミュニティで共有されている特定の誰かや何かを崇拝することはしない。私はただ、これまでに出会った人物たち――実在の、あるいは架空の、実際に会った、あるいは会っていない、存命の、あるいは既にこの世を去っている人物たち――を、それこそ「神」であるかのように信じ、自らの胸のうちに住まわせているだけである。
 私は、目の前で死のうとしている人に、神の救い、あるいは神の自殺への見解を説くことはしない。しかし私は、これまでその人が重ねてきた罪を責め、自らの命を過大視していることを指摘し、「苦しくて逃げたい」ではなく「悔しくて死ねない」という熱情を刺激したい。


 そして、「死ぬな」と煽る私も、他の誰にも負けず劣らず、「死にたがり」なのである。

愛について

 さて、前回「魂」について考察した。そもそも、「肉体・精神・魂」という観点は、宗教学的にある程度共有されている見方・考え方であり、決して私自身のオリジナルではない。そして、私は自身の前世が在原業平だと説明したが、あれは正確に言えば噓である。
 魂とは、肉体と精神にかかる、あるいは内部で起こる刺激や感覚を評価するものであると論じたが、実際には「魂など存在しない」。
 魂とは、肉体と精神が消滅しても残り続ける、輪廻転生の主体のようであると説明したが、実際には「前世など存在しない」。これらが、私の人生観である。
 ではなぜ、私は自身を「悪魔の魂」と称したり、在原業平の生まれ変わりだと主張したのか。それは、「愛」について論ずることで解決するかもしれない。


 今回論じるこの「愛」とは、「恋愛」とは大きくかけ離れたものである。とはい「恋愛」から「愛」への転換が起こりえないというわけではない。しかしここで重要なのは、恋の延長線上に愛があるという、段階的な連続性をこれらが持っているというわけではなく、愛とはその性質が非常に独特であるため、世間一般の「愛」とは大きく印象が異なるということだ。
 魂とは、私たちが生を受ける前から存在しているものではない。輪廻を繰り返す私たち、その主体が魂なのではない。輪廻も魂も、存在しないのである。魂とは創造されていくものであり、前世とは魂の正当化をスムーズにする手段的な概念なのである。あえていうならば、魂とは先天的なものではなく後天的なものであり、肉体・精神が滅びれば共に滅ぶものなのだ。


 以下、キリスト教的に考えるとする。なお私は、特定の宗教を信仰していないため、あくまでこれはケース・スタディのようなものである。
 私たち人間は、本来エデン、つまりは楽園で生活をする生き物であった。アダムとイヴだけが、楽園で生活をした経験を持つ人間であり、彼らは知恵の実を食した罪で楽園から追放され、彼らとその子孫である私たちはつらく苦しいこの世を生きることになった。
 そうであるならば、私たちの最終目標は、楽園への回帰である。真に宗教的な信者であれば、この世のすべてを手に入れることを望んだとしても、それは最終的な目標ではない。天国へ行くための「生活をするためには」、金や地位が必要な場面もあるかもしれないのであって、決してそれ自体が目標なのではない。私たちの目標は死後にあるのであって、現世のいかなるものも、私たちのこの欲求を真に満たすことはできない。
 ここで私たちには、愛が生じている。楽園での生活――理想とみなす在り方を持っているのにもかかわらず、それを実現できていない状態に陥っているのである。私が死後に望むのは、この地球に転生することではなく、楽園で生を送ることである。このとき、私たちは楽園に――より正確には、アダム(とイヴ)に愛を向けているのである。愛とは、「こうなりたい、こうありたい」という、「自分自身の」理想に向けられた眼差しのことである。女性が抱く理想の男性像というものは、愛の要素を持ちにくい。こうなりたいという欲求、同一のもの、同質のものでありたいと願う感覚を愛とするならば、むしろ愛とは異性や家族よりも同性に向きやすいかもしれない。背の高い男性を理想の男性像とする女性は、決して自身の身長を伸ばしたいわけではない。しかし背の高い女性を理想としている女性は、現実味はさておいて、自身も高身長の女性としてありたかったという欲求がそこに現れている。これこそが、私のいう「愛」なのである。


 そして、「愛」にはもうひとつ重要な要素がある。それは、自己嫌悪である。
 なぜ愛に自己嫌悪が必要なのか。ここでの自己嫌悪とは、単に自分を嫌う感覚ではなく、理想とかけ離れている状況に対する憂いの感情である。
 背の高い女性像に愛を向ける女性は、背の高い女性に対して羨望の目を向けるのと同時に、自分の現状を憂いる。その女性の理想とする身長が170センチメートルだとして、その女性が実際に170センチメートルであるならば、ここに愛は生まれない。理想は既に果たされているからである。つまり、愛の条件は理想との乖離であり、その乖離――現実と理想のギャップ――が大きければ大きいほど、自己嫌悪は強くなる。


 ここで、愛と憎しみは紙一重という論について、簡単に言及したい。確かに、愛と憎しみは表裏一体であり、常に同時発生しなければならないものであるが、それはまさに表裏の関係である。つまり、表と裏は向いている向きが違うのだ。理想への愛は現実への憎しみと表裏をなしており、誰かへの愛は自分への憎悪と背中合わせになっている。そうであるならば、「あなたを愛しているから、あなたのために言ってるのよ」などといった論は成立しなくなる。
 例えばここに、30歳独身のひとり息子がいる。そして彼は、無職である。彼の母親は、彼に「そろそろ働いたらどうなの。これはあなたのために言っているのよ」などということを発言する。そしてこれは、愛の欠片もないのである。そこにあるのは、このままだと将来破滅してしまうだろうという予測に基づく「同情心」である。この母親が指摘しているのは「理想の息子」と「現実の息子」の乖離に対してであって、表裏の関係をなしていない。愛とは「理想の自分」に向けられる「現実の自分」からの矢印であって、「理想の自分」に具体的な誰かが当てはまる可能性があるということに過ぎない。30歳独身無職の息子を叱りつけるこの母親は、息子の未来に対する同情はしていても、愛は向けられていない。そこに、理想の自分という像がないからである。
 愛とは常に「理想の自分/現実の自分」という対比を含むものであるから、基本的には「自分が変化していく」ための原動力にしかならない。誰々のような身長になりたいという欲求から生じる行為は、毎日よく食べるとか、毎日牛乳を飲むようにするとか、自分の行為にしか影響しないのであって、「誰々の足を切って身長を低くして、自分と同じにする」というような他者を変化させる行為は決して起こらない(そもそも、それは理想を低める行為でもある)。


 愛とは、自分の行為の原動力となるような、同一性を求める情動である。私が在原業平に出会ったとき、私は彼を尊敬する。強い尊敬と共に、激しい自己嫌悪が発生する。どうして私は、在原業平ではないのだ。どうして私は、彼のような詩的なセンスを持ち合わせておらず、色男ではなく、ドラマティックな人生を送ることができていないのだ。そして私は願う。「在原業平になりたい」と。そしてこの「理想像」は、私の行動の至るところで私のふるまいを促進し、抑制する。在原業平になるためには、こうすればいい、これをしてはならない。在原業平であるためには、こうすればいい、これをしてはならない。私の人生には理想の像が――在原業平が付き纏うのである。しかし、これは私の魂であり、在原業平の魂ではない。「在原業平になりたい私の魂」なのである。理想と現実は、二重に乖離を起こしている。私と在原業平の間の断絶と、現実の自分と理想の自分の間の断絶である。


 最初に主張した、魂とは創造されていくものであるという言葉の意味は、ここにある。私の魂――私の理想像――は、理想である在原業平に出会わなければ生まれなかった。出会ってないものに、気づいていないものに、どうして尊敬の念を抱くことができようか。
 また、「前世とは魂の正当化をスムーズにする手段的な概念である」とも論じたが、これは「素質」をよりスピリチュアルに表現したものである。「素質」とは、何かに尊敬の念を向ける、その人なりの傾向のことである。私は在原業平への同一性を望むという「在原業平への素質」を持っているが、それを感じない読者の方は、この「在原業平への素質」を持ち合わせていないということになる。
 人はどういうわけか、生まれながらに多くの「素質」を持っている。より俗っぽく言うならば、多くの「好きのモト」を持っている。私はその「素質」を、「前世」という言葉で比喩しているのである。なぜ私がここまで在原業平に惹かれるのか。それは誰にも説明できない。ただ、その「素質」を持っているからとしか言えない。私の中の何かが、在原業平の生き様と共鳴したとしか表現できない。全く別のものでありながら、その生き方を模倣し、辿りたいと思うこの感覚を、私は「前世」という言葉で表している。同じ道を辿るように設計されているのだと、言い聞かせようとする。


 人は、輪廻転生をしない。私たちはただ、何かを好きになる、理想だと感じる「素質」だけを天から与えられ、家庭や所属国家などの環境を、地球から授かることになる。「素質」は具体的な誰か、あるいは何かと共鳴し、同一性を要求する情動――愛――が私たちの内部に発生する。愛は理想への要求であるから、その裏にあるのは常に自己嫌悪であり、魂が示すのは、自分がどのように変化するかということだけである。他者の人生に介入しようとする心情の動きは、どれだけ相手のことを想っているという建前を築こうとも、理想の他者/現実の他者という構図――自己嫌悪が伴わない構図――であるというだけで、愛の名に相応しくない、単なる同情でしかないのである。

肉体・精神・魂〔body-mind-spirit〕について

 私は、悪魔である。
 とはいえ、私は人間の肉体を持っているし、世にイメージされるような悪魔的な姿かたち――例えば、紫色の肌をしていて、黒い翼を背中に2枚生やし、角を生やし、牙は鋭く、目は黄色に光っている、など――はしていない。あくまでも、比喩的なものである。しかし同時に、自分は本当に悪魔なのだとも思っている。
 私の肉体は人間であり、悪魔ではない。私の精神は人間であり、悪魔ではない。しかし、私は自分を悪魔だと思っている。それはなぜか。肉体と精神は人間でも、何か別のものが悪魔なのである。それは、魂である。


 そのように論じるためには、肉体と精神、そして魂とはなんであるのかを、私の言葉で説明しなければならない。当然、あくまでもこれは私にとっての「単語」および「意味」であるため、これを読んでいる人々の語彙でどのように表現されるのかにまでは考慮しない。私のいう「精神」を「魂」と呼ぶ人がいるだろうし、私が「魂」と呼ぶものを「精神」と呼ぶものもいるだろう。あるいは、そもそも解釈が違うということもありうる。しkし、それらについて議論するつもりはない。人それぞれの人生を歩んでいれば、同じ名前でも意味が違う、もしくは意味でも名前が違うことは容易に起こりうる。私は、自身の思想を広めたいわけではない。自身の思想を、読者の言葉で書き換えたいわけではない。私が望むのはただ、私の思想を私の言葉で表現したいだけなのである。


 さて、まずは「肉体」についてであるが、これはシンプルに「体そのもの」である。パソコンのキーボードを見ているこの瞳、キーボードを叩いているこの指、その間に絶えず外気を取り入れている肺は、すべて私の「肉体」、英語で言うならば“body”である。これは私が生みの親から授かったものであり、大地の構築物である。私の「肉体」はすべて、地球上にある物質から構成されている。ギリシア神話的にいうならば、ガイアの産物で構成されているといってもいいだろう。ややこしいが、私の「肉体」は「実の母」から生まれ、その「肉体」は「ガイアの産物」なのである。実の母親を否定するつもりはない。


 次に、「精神」について考える。「精神」とは、私の思想そのものである。私の思考そのものである。私の感情そのものである。私が今文字をタイピングしているとき、その内容は私の脳内――当然、脳そのものは「肉体」なのだが――で構成されたものである。私が熱いものを触った時に感じる熱さは、「精神」の賜物である。私の「肉体」である指があつあつのヤカンに触れたとき、それは神経という「肉体」を通して、脳という「肉体」で「熱い」という感情、および「精神」に変換される。
当然、ここには非対称性が存在することになる。「肉体」を通して得られた情報は「感情」という「精神」の産物に変換されることはあるが、感情そのものが「肉体」へ変化することはないのである。考えられる反論は、「熱いと思ってしまうことで熱くないものを熱く感じることがあるではないか。それは精神から肉体への作用なのではないか」というものであるが、これは大間違いである。錯覚というものは、結局のところ作用の最終点が精神なのである。このときに精神が作用したのは精神なのであり、肉体へ介入したわけではない。
あるいは、私たちは意志の力で腕を伸ばしたり曲げたりしているではないか、それについてはどうなるのだという反論も可能かもしれないが、これも否定する。私たちが意識によって腕を伸ばしたり曲げたりしているのは、いうなれば等積変形である。体積は変わっていないのだ。つまり、私が「精神によって肉体が変化する例」をあげるとするならば、それはファンタジーの物語における「念じたことで武器が生まれる」とか「念じることで腕がドリルになる」とかいった場合にのみ限るので、現実的な世界ではありえないことになる。
 そして「肉体」の“body”に対して、「精神」は“mind”になる。
「肉体」と「精神」は密接に関係しているため、ガイアの産物である「肉体」と同様に、「精神」もガイアの産物であると考えていい。より正確に言うならば、「精神」とは「ガイアの産物の産物」になる。「精神」は、「肉体」から独立して存在することはできない。


 さて、最後に「魂」についてだが、これは“spirit”と呼ぶことにする。スピリチュアルカウンセラーという言葉があるが、まさに「魂」とは「見えないもの」という認識である。
 とはいえ、見えないものであれば先述の「精神」も見えないものである。そうであるならば、「精神」と「魂」の違いはどこにあるのか。簡単である。「魂」は「ガイアの産物」ではない。明確に対にするならば、「ウラノスの産物」ということになるだろう。ウラノスとは、息子クロノスに倒された「天空の神」であり、全知全能のゼウスはウラノスの孫のような立ち位置になるのではないだろうか。
 この地球の産物ではないものと捉えたのは、魂については、肉体や精神よりも限定性が低いからである。つまり、輪廻転生というものを信じるならば、転生しているのは「魂」なのである。


 余談だが、魂と精神が独立したものであるとすれば、マゾヒズムはまさに「魂」の賜物ではないかと私は考える。私自身がマゾヒストではないために推測でしかないのだが、仮に「痛覚を快楽として認識する者」をここではマゾヒストと定義するならば、マゾヒストはまず「通常の人間と同様に」「肉体の受け取った刺激を」「快楽ではなく痛みとして」「精神が認識する」ことになる、しかし、ここでイレギュラーな反応が起こる。「魂が痛みを快楽として認識する」のだ。つまり、私の精神・魂論では、マゾヒズムとは「精神と魂の乖離」によって引き起こされているのだ。そもそも精神の段階で痛覚が快楽として処理がなされているのであれば、過剰なダメージでもその肉体は滅びることはない。ゲームの中には、ゾンビ系のモンスターに回復魔法をかけるとダメージを与えることができるものがある。ゾンビはその「肉体」の構造が通常とは異なっているので、刺激に対する反応が逆転する(回復がダメージになる)。ゾンビは「肉体」の構造が狂っているために、「HPへの回復がHPへのダメージになる」のだが、マゾヒストの場合は、例えるならば「HPへのダメージはHPへのダメージとして認識されるが、HPへのダメージの一部がMPに変換され、MPが回復する」のである。マゾヒストは「ダメージそのものを快楽としている」のではなく、「ダメージを受けたという事実を快楽としている」のであり、「痛覚」それ自体は正常に機能しているのだ。それなのに世間一般の反応と異なるのであれば、そこには何か別の判断者――つまりは魂――が存在することになる。


 話が脱線してしまったが、魂とは精神から独立したものであるから、痛みに独自の価値を付加したり、人生そのものに独自の価値を付与することがある。ゾンビは肉体と精神の構造が正常に機能していないのだが、マゾヒストは肉体と精神のつながりは正常でありながらそこに独特な意味づけを行う魂を秘めた人であり、魂とは快苦から独立して「意味」を付け加えるものである。
 私が最初に「自分が悪魔である」といったのは、まさにこの「魂」の部分に関連しているのである。人間から神が生まれることはない。人間から天使が生まれることも、悪魔が生まれることもないのである。それなのに、私が自分自身を悪魔と呼ぶのは、私の魂は「悪魔の魂」であり、輪廻転生を繰り返すうち、今回は「人間の肉体と精神」に宿ったという解釈をしているからなのだ。
 誤解されないようにあらかじめいっておくと、私にとって「心」というのは「感情」であるため、「魂」ではなく「精神」である。人が死ぬと、その肉体と心は消滅するが、魂はそれらから離れるだけで消滅することはない。肉体と精神から離れた魂は、天国や煉獄、あるいは地獄といった場所で前世の清算をした後、ガフの部屋の中で転生を待つのである。


 前世を信じるというのは「魂」の賜物である。自分がこの肉体を授かる前にも何かを経験していたというのは、その一生限りの肉体と結びついた精神ではなく、魂だからこそ生じさせることのできる感覚だからだ。私は、高校の古典の授業で出会った、在原業平の『伊勢物語』を読んで、言葉では説明できないシンパシーを感じた。まるで業平が、自分の前世であるかのような、単なる同情や共感とは異なった「共鳴」を感じたのである。あえて言わせてもらえば、私は「在原業平の生まれ変わり」なのである。読者の中にも同じ主張の方がいたら申し訳ないが、それは、業平の魂が転生を経るうちに分離し、それぞれが成長したものが私とあなたになったのだろうと解釈しておく。
 しかし私は、在原業平ではない。在原業平の経験をしたが、そのものではないのである。在原業平が死んだとき、肉体と精神から飛び立った「魂」が、私の肉体と精神を観察しているのである。在原業平でありながら、在原業平ではないこの魂に、私は「業原在平」という名前を付けているのである。