肉体・精神・魂〔body-mind-spirit〕について

 私は、悪魔である。
 とはいえ、私は人間の肉体を持っているし、世にイメージされるような悪魔的な姿かたち――例えば、紫色の肌をしていて、黒い翼を背中に2枚生やし、角を生やし、牙は鋭く、目は黄色に光っている、など――はしていない。あくまでも、比喩的なものである。しかし同時に、自分は本当に悪魔なのだとも思っている。
 私の肉体は人間であり、悪魔ではない。私の精神は人間であり、悪魔ではない。しかし、私は自分を悪魔だと思っている。それはなぜか。肉体と精神は人間でも、何か別のものが悪魔なのである。それは、魂である。


 そのように論じるためには、肉体と精神、そして魂とはなんであるのかを、私の言葉で説明しなければならない。当然、あくまでもこれは私にとっての「単語」および「意味」であるため、これを読んでいる人々の語彙でどのように表現されるのかにまでは考慮しない。私のいう「精神」を「魂」と呼ぶ人がいるだろうし、私が「魂」と呼ぶものを「精神」と呼ぶものもいるだろう。あるいは、そもそも解釈が違うということもありうる。しkし、それらについて議論するつもりはない。人それぞれの人生を歩んでいれば、同じ名前でも意味が違う、もしくは意味でも名前が違うことは容易に起こりうる。私は、自身の思想を広めたいわけではない。自身の思想を、読者の言葉で書き換えたいわけではない。私が望むのはただ、私の思想を私の言葉で表現したいだけなのである。


 さて、まずは「肉体」についてであるが、これはシンプルに「体そのもの」である。パソコンのキーボードを見ているこの瞳、キーボードを叩いているこの指、その間に絶えず外気を取り入れている肺は、すべて私の「肉体」、英語で言うならば“body”である。これは私が生みの親から授かったものであり、大地の構築物である。私の「肉体」はすべて、地球上にある物質から構成されている。ギリシア神話的にいうならば、ガイアの産物で構成されているといってもいいだろう。ややこしいが、私の「肉体」は「実の母」から生まれ、その「肉体」は「ガイアの産物」なのである。実の母親を否定するつもりはない。


 次に、「精神」について考える。「精神」とは、私の思想そのものである。私の思考そのものである。私の感情そのものである。私が今文字をタイピングしているとき、その内容は私の脳内――当然、脳そのものは「肉体」なのだが――で構成されたものである。私が熱いものを触った時に感じる熱さは、「精神」の賜物である。私の「肉体」である指があつあつのヤカンに触れたとき、それは神経という「肉体」を通して、脳という「肉体」で「熱い」という感情、および「精神」に変換される。
当然、ここには非対称性が存在することになる。「肉体」を通して得られた情報は「感情」という「精神」の産物に変換されることはあるが、感情そのものが「肉体」へ変化することはないのである。考えられる反論は、「熱いと思ってしまうことで熱くないものを熱く感じることがあるではないか。それは精神から肉体への作用なのではないか」というものであるが、これは大間違いである。錯覚というものは、結局のところ作用の最終点が精神なのである。このときに精神が作用したのは精神なのであり、肉体へ介入したわけではない。
あるいは、私たちは意志の力で腕を伸ばしたり曲げたりしているではないか、それについてはどうなるのだという反論も可能かもしれないが、これも否定する。私たちが意識によって腕を伸ばしたり曲げたりしているのは、いうなれば等積変形である。体積は変わっていないのだ。つまり、私が「精神によって肉体が変化する例」をあげるとするならば、それはファンタジーの物語における「念じたことで武器が生まれる」とか「念じることで腕がドリルになる」とかいった場合にのみ限るので、現実的な世界ではありえないことになる。
 そして「肉体」の“body”に対して、「精神」は“mind”になる。
「肉体」と「精神」は密接に関係しているため、ガイアの産物である「肉体」と同様に、「精神」もガイアの産物であると考えていい。より正確に言うならば、「精神」とは「ガイアの産物の産物」になる。「精神」は、「肉体」から独立して存在することはできない。


 さて、最後に「魂」についてだが、これは“spirit”と呼ぶことにする。スピリチュアルカウンセラーという言葉があるが、まさに「魂」とは「見えないもの」という認識である。
 とはいえ、見えないものであれば先述の「精神」も見えないものである。そうであるならば、「精神」と「魂」の違いはどこにあるのか。簡単である。「魂」は「ガイアの産物」ではない。明確に対にするならば、「ウラノスの産物」ということになるだろう。ウラノスとは、息子クロノスに倒された「天空の神」であり、全知全能のゼウスはウラノスの孫のような立ち位置になるのではないだろうか。
 この地球の産物ではないものと捉えたのは、魂については、肉体や精神よりも限定性が低いからである。つまり、輪廻転生というものを信じるならば、転生しているのは「魂」なのである。


 余談だが、魂と精神が独立したものであるとすれば、マゾヒズムはまさに「魂」の賜物ではないかと私は考える。私自身がマゾヒストではないために推測でしかないのだが、仮に「痛覚を快楽として認識する者」をここではマゾヒストと定義するならば、マゾヒストはまず「通常の人間と同様に」「肉体の受け取った刺激を」「快楽ではなく痛みとして」「精神が認識する」ことになる、しかし、ここでイレギュラーな反応が起こる。「魂が痛みを快楽として認識する」のだ。つまり、私の精神・魂論では、マゾヒズムとは「精神と魂の乖離」によって引き起こされているのだ。そもそも精神の段階で痛覚が快楽として処理がなされているのであれば、過剰なダメージでもその肉体は滅びることはない。ゲームの中には、ゾンビ系のモンスターに回復魔法をかけるとダメージを与えることができるものがある。ゾンビはその「肉体」の構造が通常とは異なっているので、刺激に対する反応が逆転する(回復がダメージになる)。ゾンビは「肉体」の構造が狂っているために、「HPへの回復がHPへのダメージになる」のだが、マゾヒストの場合は、例えるならば「HPへのダメージはHPへのダメージとして認識されるが、HPへのダメージの一部がMPに変換され、MPが回復する」のである。マゾヒストは「ダメージそのものを快楽としている」のではなく、「ダメージを受けたという事実を快楽としている」のであり、「痛覚」それ自体は正常に機能しているのだ。それなのに世間一般の反応と異なるのであれば、そこには何か別の判断者――つまりは魂――が存在することになる。


 話が脱線してしまったが、魂とは精神から独立したものであるから、痛みに独自の価値を付加したり、人生そのものに独自の価値を付与することがある。ゾンビは肉体と精神の構造が正常に機能していないのだが、マゾヒストは肉体と精神のつながりは正常でありながらそこに独特な意味づけを行う魂を秘めた人であり、魂とは快苦から独立して「意味」を付け加えるものである。
 私が最初に「自分が悪魔である」といったのは、まさにこの「魂」の部分に関連しているのである。人間から神が生まれることはない。人間から天使が生まれることも、悪魔が生まれることもないのである。それなのに、私が自分自身を悪魔と呼ぶのは、私の魂は「悪魔の魂」であり、輪廻転生を繰り返すうち、今回は「人間の肉体と精神」に宿ったという解釈をしているからなのだ。
 誤解されないようにあらかじめいっておくと、私にとって「心」というのは「感情」であるため、「魂」ではなく「精神」である。人が死ぬと、その肉体と心は消滅するが、魂はそれらから離れるだけで消滅することはない。肉体と精神から離れた魂は、天国や煉獄、あるいは地獄といった場所で前世の清算をした後、ガフの部屋の中で転生を待つのである。


 前世を信じるというのは「魂」の賜物である。自分がこの肉体を授かる前にも何かを経験していたというのは、その一生限りの肉体と結びついた精神ではなく、魂だからこそ生じさせることのできる感覚だからだ。私は、高校の古典の授業で出会った、在原業平の『伊勢物語』を読んで、言葉では説明できないシンパシーを感じた。まるで業平が、自分の前世であるかのような、単なる同情や共感とは異なった「共鳴」を感じたのである。あえて言わせてもらえば、私は「在原業平の生まれ変わり」なのである。読者の中にも同じ主張の方がいたら申し訳ないが、それは、業平の魂が転生を経るうちに分離し、それぞれが成長したものが私とあなたになったのだろうと解釈しておく。
 しかし私は、在原業平ではない。在原業平の経験をしたが、そのものではないのである。在原業平が死んだとき、肉体と精神から飛び立った「魂」が、私の肉体と精神を観察しているのである。在原業平でありながら、在原業平ではないこの魂に、私は「業原在平」という名前を付けているのである。