愛について

 さて、前回「魂」について考察した。そもそも、「肉体・精神・魂」という観点は、宗教学的にある程度共有されている見方・考え方であり、決して私自身のオリジナルではない。そして、私は自身の前世が在原業平だと説明したが、あれは正確に言えば噓である。
 魂とは、肉体と精神にかかる、あるいは内部で起こる刺激や感覚を評価するものであると論じたが、実際には「魂など存在しない」。
 魂とは、肉体と精神が消滅しても残り続ける、輪廻転生の主体のようであると説明したが、実際には「前世など存在しない」。これらが、私の人生観である。
 ではなぜ、私は自身を「悪魔の魂」と称したり、在原業平の生まれ変わりだと主張したのか。それは、「愛」について論ずることで解決するかもしれない。


 今回論じるこの「愛」とは、「恋愛」とは大きくかけ離れたものである。とはい「恋愛」から「愛」への転換が起こりえないというわけではない。しかしここで重要なのは、恋の延長線上に愛があるという、段階的な連続性をこれらが持っているというわけではなく、愛とはその性質が非常に独特であるため、世間一般の「愛」とは大きく印象が異なるということだ。
 魂とは、私たちが生を受ける前から存在しているものではない。輪廻を繰り返す私たち、その主体が魂なのではない。輪廻も魂も、存在しないのである。魂とは創造されていくものであり、前世とは魂の正当化をスムーズにする手段的な概念なのである。あえていうならば、魂とは先天的なものではなく後天的なものであり、肉体・精神が滅びれば共に滅ぶものなのだ。


 以下、キリスト教的に考えるとする。なお私は、特定の宗教を信仰していないため、あくまでこれはケース・スタディのようなものである。
 私たち人間は、本来エデン、つまりは楽園で生活をする生き物であった。アダムとイヴだけが、楽園で生活をした経験を持つ人間であり、彼らは知恵の実を食した罪で楽園から追放され、彼らとその子孫である私たちはつらく苦しいこの世を生きることになった。
 そうであるならば、私たちの最終目標は、楽園への回帰である。真に宗教的な信者であれば、この世のすべてを手に入れることを望んだとしても、それは最終的な目標ではない。天国へ行くための「生活をするためには」、金や地位が必要な場面もあるかもしれないのであって、決してそれ自体が目標なのではない。私たちの目標は死後にあるのであって、現世のいかなるものも、私たちのこの欲求を真に満たすことはできない。
 ここで私たちには、愛が生じている。楽園での生活――理想とみなす在り方を持っているのにもかかわらず、それを実現できていない状態に陥っているのである。私が死後に望むのは、この地球に転生することではなく、楽園で生を送ることである。このとき、私たちは楽園に――より正確には、アダム(とイヴ)に愛を向けているのである。愛とは、「こうなりたい、こうありたい」という、「自分自身の」理想に向けられた眼差しのことである。女性が抱く理想の男性像というものは、愛の要素を持ちにくい。こうなりたいという欲求、同一のもの、同質のものでありたいと願う感覚を愛とするならば、むしろ愛とは異性や家族よりも同性に向きやすいかもしれない。背の高い男性を理想の男性像とする女性は、決して自身の身長を伸ばしたいわけではない。しかし背の高い女性を理想としている女性は、現実味はさておいて、自身も高身長の女性としてありたかったという欲求がそこに現れている。これこそが、私のいう「愛」なのである。


 そして、「愛」にはもうひとつ重要な要素がある。それは、自己嫌悪である。
 なぜ愛に自己嫌悪が必要なのか。ここでの自己嫌悪とは、単に自分を嫌う感覚ではなく、理想とかけ離れている状況に対する憂いの感情である。
 背の高い女性像に愛を向ける女性は、背の高い女性に対して羨望の目を向けるのと同時に、自分の現状を憂いる。その女性の理想とする身長が170センチメートルだとして、その女性が実際に170センチメートルであるならば、ここに愛は生まれない。理想は既に果たされているからである。つまり、愛の条件は理想との乖離であり、その乖離――現実と理想のギャップ――が大きければ大きいほど、自己嫌悪は強くなる。


 ここで、愛と憎しみは紙一重という論について、簡単に言及したい。確かに、愛と憎しみは表裏一体であり、常に同時発生しなければならないものであるが、それはまさに表裏の関係である。つまり、表と裏は向いている向きが違うのだ。理想への愛は現実への憎しみと表裏をなしており、誰かへの愛は自分への憎悪と背中合わせになっている。そうであるならば、「あなたを愛しているから、あなたのために言ってるのよ」などといった論は成立しなくなる。
 例えばここに、30歳独身のひとり息子がいる。そして彼は、無職である。彼の母親は、彼に「そろそろ働いたらどうなの。これはあなたのために言っているのよ」などということを発言する。そしてこれは、愛の欠片もないのである。そこにあるのは、このままだと将来破滅してしまうだろうという予測に基づく「同情心」である。この母親が指摘しているのは「理想の息子」と「現実の息子」の乖離に対してであって、表裏の関係をなしていない。愛とは「理想の自分」に向けられる「現実の自分」からの矢印であって、「理想の自分」に具体的な誰かが当てはまる可能性があるということに過ぎない。30歳独身無職の息子を叱りつけるこの母親は、息子の未来に対する同情はしていても、愛は向けられていない。そこに、理想の自分という像がないからである。
 愛とは常に「理想の自分/現実の自分」という対比を含むものであるから、基本的には「自分が変化していく」ための原動力にしかならない。誰々のような身長になりたいという欲求から生じる行為は、毎日よく食べるとか、毎日牛乳を飲むようにするとか、自分の行為にしか影響しないのであって、「誰々の足を切って身長を低くして、自分と同じにする」というような他者を変化させる行為は決して起こらない(そもそも、それは理想を低める行為でもある)。


 愛とは、自分の行為の原動力となるような、同一性を求める情動である。私が在原業平に出会ったとき、私は彼を尊敬する。強い尊敬と共に、激しい自己嫌悪が発生する。どうして私は、在原業平ではないのだ。どうして私は、彼のような詩的なセンスを持ち合わせておらず、色男ではなく、ドラマティックな人生を送ることができていないのだ。そして私は願う。「在原業平になりたい」と。そしてこの「理想像」は、私の行動の至るところで私のふるまいを促進し、抑制する。在原業平になるためには、こうすればいい、これをしてはならない。在原業平であるためには、こうすればいい、これをしてはならない。私の人生には理想の像が――在原業平が付き纏うのである。しかし、これは私の魂であり、在原業平の魂ではない。「在原業平になりたい私の魂」なのである。理想と現実は、二重に乖離を起こしている。私と在原業平の間の断絶と、現実の自分と理想の自分の間の断絶である。


 最初に主張した、魂とは創造されていくものであるという言葉の意味は、ここにある。私の魂――私の理想像――は、理想である在原業平に出会わなければ生まれなかった。出会ってないものに、気づいていないものに、どうして尊敬の念を抱くことができようか。
 また、「前世とは魂の正当化をスムーズにする手段的な概念である」とも論じたが、これは「素質」をよりスピリチュアルに表現したものである。「素質」とは、何かに尊敬の念を向ける、その人なりの傾向のことである。私は在原業平への同一性を望むという「在原業平への素質」を持っているが、それを感じない読者の方は、この「在原業平への素質」を持ち合わせていないということになる。
 人はどういうわけか、生まれながらに多くの「素質」を持っている。より俗っぽく言うならば、多くの「好きのモト」を持っている。私はその「素質」を、「前世」という言葉で比喩しているのである。なぜ私がここまで在原業平に惹かれるのか。それは誰にも説明できない。ただ、その「素質」を持っているからとしか言えない。私の中の何かが、在原業平の生き様と共鳴したとしか表現できない。全く別のものでありながら、その生き方を模倣し、辿りたいと思うこの感覚を、私は「前世」という言葉で表している。同じ道を辿るように設計されているのだと、言い聞かせようとする。


 人は、輪廻転生をしない。私たちはただ、何かを好きになる、理想だと感じる「素質」だけを天から与えられ、家庭や所属国家などの環境を、地球から授かることになる。「素質」は具体的な誰か、あるいは何かと共鳴し、同一性を要求する情動――愛――が私たちの内部に発生する。愛は理想への要求であるから、その裏にあるのは常に自己嫌悪であり、魂が示すのは、自分がどのように変化するかということだけである。他者の人生に介入しようとする心情の動きは、どれだけ相手のことを想っているという建前を築こうとも、理想の他者/現実の他者という構図――自己嫌悪が伴わない構図――であるというだけで、愛の名に相応しくない、単なる同情でしかないのである。