「死にたがり」について

 私は、死にたがりである。死にたくなりやすい体質なのである。
 とはいえ、私の手首に傷など全くついていないし、腕にも切ったあとはない。私からすれば、手首や腕を切りたがる人というのは死にたがりではないのである。彼らは逃げたがりなのであって、情けをかけずに評すれば、死にたがりよりも低次な存在なのである。


 では、私のいう「死にたがり」とは、いったい何であるのか。それは非常に単純である。死にたがりとは、良心の声を常に聞き入れていることによって、絶えず理想と現実の衝突に直面し、現実の自分の姿を恥じて、消えてしまいたいと考える者のことである。
 それならば、先にあげた例――手首や腕を切りたがる、自傷癖のある人々――と変わらないではないか。そんな反論が出てくるかもしれない。それに対して私は、先の条件に一文節加えることによって「死にたがり」が「自傷癖」と何が違うのかを説明することができる。その「一文節」とは、「自らの罪を重く見ているために、死ぬことすらできない者」というものである。


 前回、愛について論じた。愛とは、自身の生活の中で、どういうわけか尊敬せざるを得ないような大いなる存在――つまり魂――に対する同一性の欲望であり、自分の理想を追い求め、自分の現実を恨む激情のことである。
 愛によって形成された理想「たち」は――魂とは、複数存在していなければならない。その複数性こそが、その人が肉体と共にもたらされた感度であるのだから――生活の至るところで自分の行動に対して推奨し、あるいは非難する。そして私は、これを「良心」と呼んでいる。良心とは、生まれ持って多くの人々に共通してもたらされた無形なものではなく、具体的な生活の中で紡がれた愛の結晶――集合体――なのである。
 そしてこの良心は、私たちを責め立てることを仕事のひとつにしている。このように振る舞うのだと命じ、それに従わなかった場合、その持ち主に対して「理想から距離を取った」ことを叱責するのである。あるいは、逆に「してはならない」と命じたことに背き、悪を為した場合にも、同じような対応をする。つまり、良心とは「命ずる者」であり「責める者」なのである。
 とはいえ、その「責め」の場面は、その人の内部で起こっていることであるため、他者からすれば何も見えないし、ひとりで苦しんでいるように見える。しかし、これこそが真の「自責」なのだ。形のない「理想」からかけ離れたことに対してネガティブな評価を自分に向けることと、形のある「良心」から乖離した自身に怒りを向けることでは、後者の方が圧倒的に高次な、人間らしい感覚なのである。というのも、前者の場合は「他者への尊敬」というものを持たず、空洞の理想との分断に苦しんでいるのだから、ひとりだけのヒトとしてならまだしも、多くの他者と共存している「人間」――つまり、あらゆる「人間(良心)」の「間」で葛藤する存在――として見なすことができないからである。単なる「~ができない自分」という認識は、まさに無価値なのだ。そんな、真の理想なき悩みなど、悩む価値もないのである。「~のように~できない」という、具体的な像を持つことによって、私たちの悩みというものは光を放つ。


 さて、この愛であるが、これは私自身、あるいは誰か自身に固有の情熱である。愛されキャラという言葉はあっても、私の主張する意味で誰にでも「愛される」人というのはありえない。かわいらしさとは独立して、そうなりたいという願望、そして表裏をなす「なぜ自分はこの人じゃないのか」という自己嫌悪を引き起こすような人がそうそういるはずがない。
 愛とは理想に向けられるものであり、愛の結晶が良心である。良心は自分を責めたてるものであるが、良心は決して自殺を推奨することはない。良心は、このようにあれという手招きをすることはあっても、それがどれだけ非難の声を上げながらであっても、彼らの元へ向かうことを促すのであって、決してその道をあきらめること――つまり自殺――を促進するようには働かない。
 そうであるならば、自殺とは、そもそも人生の具体的な理想像を掴めなかったものが、そもそもどこにもつながっていない、果てもなければ意味もない道から脱落することか、理想を形成して、その良心から手招きを受けながらもそれを拒否して道から落ちることということになる。そしてこの場合、より罪深いのは後者である。
たしかに、先に述べたように人生の具体的な理想像を形成できないということは、人間として不十分であるわけだが、それは、いうなれば「あわれみ」の対象である。
しかし後者の場合――良心の声を聴きながらそれを無視した者は、二重の意味で罪を背負うことになる。ひとつ目は、単純に「尊敬する者からの声」を無視したことにあり、ふたつ目は、その人に固有であった愛の素質――具体的な誰かを良心へと昇華させる能力――を放棄したこと、つまりは「その人への愛をひとつ消滅させたこと」である。
 当然、神より与えられた命に対しての冒涜という観点から自殺を非難することもできるし、自殺を否定する宗教はこれを理由としているだろう。しかし、私にいわせれば、人は「その人自身の命」よりも「誰かに愛を向けることができる能力」に価値があるのである。当然、命それ自体の価値は重たいものであるが、それよりも愛――正確には、愛の可能性――を重視するのである。


 私が死にたがりであるということに話を戻すことにする。私が死にたがりであるのはなぜか。それは、私が多くの愛、多くの良心を私の内部に形成している――つまり理想が多重になっているため、振る舞いが良心から脱線する頻度が非常に高いからである。振る舞いからの脱線は、自己嫌悪を引き起こす。なぜ私はあのように、彼のように、彼女のように振る舞えなかったのか。自らを恥じて、自らの命に価値を見出せず、これを放棄したいと感じる機会も非常に多い。
 では、なぜ私は死ねないのだろうか。それは、私の振る舞いが理想からの逸脱を重ねすぎたため――誰かを傷つけたり、あるいは救えなかったりしたために、私自身が積み重ねた「罪」というものが、膨大に膨れあがってしまい、もはやこの命ひとつ犠牲にしたところで償い切れないものになっているという意識があるからである。
 私が死にたがりであるのは、私が良心の指示に従うことのできない未熟な存在であるからである。私が死ねないのは、私が罪を犯しすぎたためである。つまり私の死にたがりとは、単に「自らの命や価値を軽視している」だけではなく、これまでの人生の失敗と比較することで、「捨てたところで何も引き起こせないほど無価値である」という強化がなされた結果の罪悪感なのである。
しかし、そのようなネガティブな感覚だけではない。私はたしかに、死にたくなるほど理想に届かない。だが同時に、理想に届くまでは死ねないという感覚も胸に秘めているのである。これは、単なる自己嫌悪に留まらない、悔しさという感覚である。
 死にたくなって自身を傷つける人がここにいたとする。もちろん、それが本当に死ぬためのものであるかにも当然目を向ける必要がある。死ぬ気がないのに自身を傷つける人というのは、誰かへのあてつけを形にしたい――見せつけたいだけか、その傷を誰かに示すことで同情を得たいだけか、感覚の狂ったマゾヒストである。
 私のいう「死にたがり」とは、死にたくなるが、愛のために、罪悪感のために、悔しさのために死ぬことを選択しない――選択できない人のことである。人生を放棄するために自殺を遂行した者や、苦しみのために命を捨てようとするものは、死にたがりというよりは「逃げたがり」なのである。今自分を苦しめている「苦しみ」から逃げたいという感覚を持った人なのである。しかし、私が強調・指摘したいのはむしろ、「これまでに重ねてきた罪から逃げている」ということ――命ひとつで簡単に償えると、自らの命を過大視しているという点である。


 当たり前のことだが、私は堪えられないほどの貧困や不幸から自殺をしたこともないし、それを願ったこともない。堪えられないほどの貧困や不幸から自殺をした人に対して無礼であるという批判を、私自身が受けることもあるだろう。死人に鞭を打つことはしない。私は、私の言葉でいうところの「逃げ」によって「自殺してしまった」人を責めるようなことはしない。これから死のうとしている人が目の前にる時、私は自身の論を突きつけたい。
 私は宗教家ではない。私は、一定のコミュニティで共有されている特定の誰かや何かを崇拝することはしない。私はただ、これまでに出会った人物たち――実在の、あるいは架空の、実際に会った、あるいは会っていない、存命の、あるいは既にこの世を去っている人物たち――を、それこそ「神」であるかのように信じ、自らの胸のうちに住まわせているだけである。
 私は、目の前で死のうとしている人に、神の救い、あるいは神の自殺への見解を説くことはしない。しかし私は、これまでその人が重ねてきた罪を責め、自らの命を過大視していることを指摘し、「苦しくて逃げたい」ではなく「悔しくて死ねない」という熱情を刺激したい。


 そして、「死ぬな」と煽る私も、他の誰にも負けず劣らず、「死にたがり」なのである。